プロフィール

やんくま
1980年生まれ男性

◆◆◆興味関心◆◆◆
インテグラル理論、エニアグラム、奇跡講座、合気道、
など


生い立ち

(または、過去との和解と、人生への新たな意味づけ)

幼少期

幼少の頃、怒鳴り声の喧嘩が絶えない両親や、育児を押し付けられた5歳上の兄による虐待的保育など、家庭環境はとても悪く、たくさんのトラウマと愛着障害を抱えることに。そんな中、母が言うには、保育園で読んでもらった絵本の話を、家に帰ってから、弟に話して聞かせるのが、とても上手だったとか。外では、気が弱くて友達には馴染めず、登園拒否(きびしい母に耳を引かれて連れて行かれた保育園…)。絵だけは得意で、放っておけば驚くような集中力で、描き上げる絵は、大人になった自分が見ても、よく描けていると思う。

この時期の良かった面としては、自然に近い環境で過ごす時間が長く、祖父母はやさしく外に連れ出してくれた。また、自然教育を重視する保育園でも、自然に親しむ時間をたくさん取れていたこと。また、この時期に抱えたトラウマや重度の愛着障害が、その後の人生を恐怖に満ちたものにするのだが、それが、巡り巡って、今の「心」についての深い学びの原動力となった。

少年時代

少年時代。虐められることを過度に恐れ、不良を装うことを覚え始めたのは、小学4年の頃。18歳になるまでの10年間は、強度のhsp男子が、不良の世界で立場を維持し続けるという、地獄の日々。されど勉強は得意で、高校は、地元の進学校に2番で入学。しかし、環境に馴染めず、バイトに明け暮れ、3年の春に退学。その後、通信高校へ編入することができ、無事卒業。良い思い出の少ない地元を後にする。その後、絵の世界なら、居場所もあろう…と、母に頼み込み、グラフィックの専門学校へ。入学半年で作った3dアニメーションが、企業主催のコンクールで最優秀賞、賞金20万。それに飽きると、現代美術にのめり込み、群馬県青年ビエンナーレに2作品を同時入選。寝る間も惜しんで学んだ、学生時代。自分の優秀さを証明し続けることで、安全な状況を守るという、その後の「間違った思考パターン」の基礎が強固に出来上がる。

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職歴前半(23歳〜35歳)

  • 専門学校講師を2年
  • 個人イラストレーターを2年
  • デザイン会社にて、デザイナー兼ディレクターを9年

講師時代は、職員室に入れず、授業は生きた心地がせず、今思えば、完全な適応障害。当時は、ただただ地獄。個人イラストレーターの時代は営業ができず、極貧。工場でバイトしたりして、食い繋いだ。27歳で、デザイン会社へ入社。しかし、適応障害により、入社半年目から始まった精神安定剤服用の毎日は、その後8年続き、限界を迎える。一年の休職の末、復帰の目処立たず、退職。会社での最後の肩書きは、クリエイティブディレクター。

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職歴後半(36歳〜43歳)

  • コンビニバイト1年半
  • 有機栽培米農家1年
  • 自動車メーカー工場1年半
  • 大工半年
  • デザイン会社の外注スタッフ1年
  • 木彫作家半年(兼業にて継続中)

30歳の頃には、もう、適応障害の苦しみに耐えきれず、本格的に治そうと精神科にて何度も相談。しかし、薬を処方するだけの対応に、失望。薬による対症療法ではなく、根本的な治療を求めて、カウンセリングを検討するも、「対話で治るわけない…」という思いと、高額な費用への不信感、また、その様な理由付けの裏にある、「セラピストから否定されることへの恐れ」により、断念。その後、アメリカの意識開発プログラムにのめり込み、大きな借金を抱える。途方に暮れつつも、心理学や宗教、東洋哲学、素粒子物理、分子生物学…などを、自力で学習し続け、徐々に理解を深める。また、自分の心について学んだことを、そのときどきの職場(農家や大工、工場勤務など)で実践しながら、ひたすら自己適用を重ねる。

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現在

現在は、家から5分の清掃会社で、ごみ収集車に乗りつつ、学びを継続。幸せに暮らしています。